『ありがとう』自己利益を求めるその行動の答え

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 先日、奈良県の長谷寺へ参拝に行きました。とてもいい天気で少し暑く汗ばむ陽気でした。参拝を終えて周辺を散策していると、五重塔で写真を撮りあっている方がいました。ご年配の方で友人同士なのか二人で代わり代わり写真を撮りあっていました。その光景を見て「お二人で撮りましょうか。」と声を掛けました。撮り終わった後、「ありがとう、素敵なお兄さんやー。」といっていただきました。素直にうれしくなりました。そのやり取りが終わった後、どうして自分は声をかけたのだろうと自問しました。その答えは喜んでくれるだろうと思いそうしたでした。ではなぜ喜んでほしいと思ったのでしょうか。それは、喜ぶことで自分に感謝をしてくれると思ったからです。余は、自分にとっての利益を考えたうえでの行動なのです。では、もし感謝をしてくれなかったらどう感じたのだろうとも考えました。すると声をかけなければよかったと、素直にお願いすればいいのにと思うだろうでした。実際にされたわけではないので本当にそう思うかはわかりませんが、おそらくそう思った事でしょう。では、もしそう思ったのであればどうしてそう思うと思ったのでしょう。それは、やはり、感謝をしてほしいという自己の利益の損失によるフラストレーションでしょう。自己の利益のために行動をするというのは、自分にとっていい事なのでしょうか。自分の利益(感謝してほしい)を欲せず、その二人が声をかけてくれるのを待っていたら良かったのでしょうか。
 次に写真をとった理由が自己の利益を欲することによる行動でなく、他者の利益のためだけにと思い行動をしたと考えてみましょう。他者の利益とはこの場合写真を撮ってもらって思い出に残り喜んでもらうです。その場合でも、喜んでお礼をしてもらう事は嬉しい事です。しかし、次からが違います。他者がお礼を言うことはあくまで結果によるおまけとして考えることができます。おまけなので、あってもなくても良いもので、あればうれしいし、なけばないで何とも思いません。こう考えると、先ほど考えた自己の利益の損失(感謝をしない)によるフラストレーションは感じません。よってこの問題は解決します。
 次に、声をかけられたが実は写真を撮ってもらうこと自体が、その二人にとって余計なお世話である又は迷惑であると感じていたならどうでしょう。先ず、写真を一生に撮ってあげると喜ぶだろうという考えは、私自身の価値観や考えで相手の立場を考えての事ではありません。もしかした、その方は何らかの理由で二人で写真を撮りたくなかったかもしれません。そうだとしたら、価値観の押し付けによるおせっかいとなります。
 では、どうしたらよかったのか。誰にとっても当てはまる答えはなく。ただ目の前の他人が喜ぶことを単に行うことが良かったのだと思うしかないと結論づけました。

自律神経専門の鍼灸サロンNOTO
大阪都島区京橋駅徒歩一分

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